自分の人生は自分で決める
人生は決断の連続
このお寺のサイトでブログを書き始めて2週間と少しが経ちました。ちょっとは板についてきましたかね、なんて思っております。
私、以前にも書いておりましたが先月末付けで2年3ヶ月お勤めした本山の宗務所を退職いたしました。
その後ですが、これから仕事を見つけることになるのですが、このコロナ禍です。仕事を続けたくてもリストラにあった、契約を更新されなかった、などで苦しんでおられる方が沢山いらっしゃる中で、自分の選択が本当に正しかったのかどうかはわかりません。
ただ全く後悔がなく、したいことが沢山あってそれに着手出来ているので悪くはないのですが、たまにものすごく不安になります(笑)
そして退職前後は、仕事だけでなくプライベートでも決断を迫られる大きな出来事があったので、本当にこの1ヶ月間は色んなことを考えながら過ごしていました。これまで正面から向き合わずに有耶無耶にしていたことと直面するというのは相当体力を使うものですね。
人生とは本当に決断の連続の末に形づいていくものなのだと実感をもって感じています。
結婚や転職などの人生の大きな過渡期での決断はもちろんですが、もっと些細な、例えば出かける時に徒歩で行くのか、自転車で行くのか、そういうことも人生の選択です。
「たまには歩いて行こうか」と徒歩で出かけて歩いてたら通り魔に刺された、とか信号待ち中に車が突っ込んできた、なんてこともありますし、その逆も然りです。
いちいち意識していたら発狂して生活がままなりませんが、私たちはその局面局面でその都度選択をして生きているのです。
その結果は選び、進んでからでないと分からない、そんな不確実性が人生にはあります。
どの道、後悔するんだろう
そして人生に正解はありません。
なぜなら、そもそも比較対象がないからです。
よく「隣の芝は青い」と言われますが、それはあくまで他人の選択の結果であって自分のそれではありません。
「あの時こうしていたら」という自分に都合の良い仮定でしか判断できず、「こうしたら正解」という断定できる人はいないのです。
私の考えを言えば「どの道、後悔するんだろう。」と思っています。
これまでも進路、仕事、とりわけ人間関係で幾度となく後悔をしてきました。
「あの時、こうしておけば・・・」と心臓が引き裂かれるほど悔やんだこともありました。
それでも今、もう一回人生をやり直したいとは思っていないですし、後悔はあれど、目標もあれば、自分が選んだ道の上で出遇えた沢山の大事な人たちがいるので、仮に他の人生があったとしてもどうでもいいなと思います。
自分の選択は誰のせいにも出来ない
よく「他人の人生を生きるな!自分の人生を生きろ!」という言葉を自己啓発系のサイトで見かけますが、「他人の人生を生きる」なんてそもそも不可能だと思っています。
数年前、本山の研修で一緒だった方で、自分は絵描きの仕事がしたかったけど、生まれた家がお寺で両親からも後継ぎとしてずっと期待されて育ってきたから、絵描きの道は諦めてお寺の道を進んだという人がおられました。
恐らくこういうことを「他人の人生を生きている」と定義しているのでしょう。
しかし彼は間違いなく彼の人生を生きています。
単に道を選ぶ過程で「親の意思」が入っているというだけで、選んだのは彼自身なのですから、それをどうして「他人の人生」と言えるでしょうか。
ただ一つだけ言えることは、彼は絵描きになれなかったことは親のせいではないということです。
たとえ親が「お寺を継いでくれ」と言わなければ、絵描きになれた未来が待っていたとしても、自分の選びの結果ですから、自分自身が担って生きるしかないのです。
27歳の若輩者が僭越ではありますが、私の人生も沢山の人々との出遇いに運ばれてここに在るのだと思います。
人の意見に逆らって選んだことも、人の意見にしたがって選んだこともありましたが、その全てがやっぱり自分の選びなのです。
諦めでなく意志で
絵具メーカーのホルベイン工業の広告に、こんな言葉があります。
白い面に絵を描くのはことのほか意志というエネルギーがいる。現世を諦めた人には絵は描けない。(一部抜粋)
1999年 ホルベイン工業 岩橋孝治
自分の選択とその結果を受け入れるのは覚悟がいることです。私自身、受け入れられない時期もありましたし、これからも必ず直面するだろうと思います。
だからこそ、自分の道は自分で決めて生きていきたいと思っています。
「〇〇がこう言うから」とか「今さら〜」という諦めではなく、自分の意志で選んだ道を進みたいのです。
「そんなこと書いている暇があるのなら仕事を探せ!」
という声が聞こえてきそうなので、ここで失礼します。