1. HOME
  2. ブログ
  3. 随想
  4. 「屠る」ということ

「屠る」ということ

最近、『VICE』と言うメディアがYou-Tubeで配信しているドキュメンタリー映像をよく観ています。

その中で、「ハラールとは神が認めたグルメ」と言うタイトルのものがあり、それがとても印象深かったのでここでご紹介させていただきたいと思います。

 

「命を食べている」という自覚

この番組は、女性リポーターがニューヨークのハラールフードのお店や屠殺場を取材し、イスラム教徒(ムスリム)の食文化を伝えるという内容です。

まず、「ハラール」という言葉ですが、これは「イスラム教で良いとされているもの」を意味しますので、ハラールフードはイスラム教で食べてO Kとされる食材や料理のことを言います。(ちなみに対義語は「ハラーム」と言います。)

番組ではハラールの屠殺場を取材します。その手順はといいますと、祈りを唱えながら鋭利なナイフで鶏の首を切り落として逆さまにして血を抜き、食肉処理をします。

目を背けたくなる映像であったのですが、その仕事をするスタッフの方がこんなことを仰っていました。

「(鶏を屠る所を)みんなに見てほしい。食べるのは簡単だ。みんな鈍感になっている。パック入りのチキンを買って、調理に失敗したらゴミ箱へポイだ。動物の命を食べているという自覚がない。その目で見て覚えていてほしいんだ。」

これは私たちにも言えることではないでしょうか。私たちは日頃から肉を食しておりますが、自身で屠った肉ではありません。自分の手を血で染めることもなければ、断末魔を聞くこともありません。その動物がどんな環境で育てられ、どう屠られたのか知らずに美味しい思いだけして生きていけるわけです。子どもたちの中には、トレイに乗った鶏肉が元々はにわとりであったことも知らない子もいるそうです。

しかし、このハラール屠殺場では買い手が屠りの行程に最初から参加し、最後に祈りを唱えてもらい持ち帰るのだそうです。

これは私たちの感覚からすると大変ショッキングですね。これによって肉が食べられなくなる人もいるかもしれません。(住職は幼少期に鶏をシメるているのを見て以来、皮付きの鶏肉は苦手だそうです。)

ですが、それこそが私たちが日頃当たり前にしている「命を食べる」ということの重さなのでしょう。「生きよう生きよう」としている重たく尊い命を奪い、我が血肉にするわけですから。その「いただいている」という感覚がこの大量消費社会の中では見えにくくなっているのでしょう。

「食べる生活からいただく生活へ」が本山のお斎(精進料理)のキャッチコピーですが、それは精進料理でなくとも、肉料理であっても、そこに「命をいただいている実感」を持つことが大切なことなのでしょう。

以上、ここまでがお寺で毎月ご門徒へお配りしているリーフレット『円龍寺通信』に寄せさせていただいたコラムです。

その後、動物の屠殺についてさらに調べてみると、自分がいかに「屠る」ということに対していい加減な認識を持っていたかを痛感させられました。

 

「屠る」ことへの僕の無理解

突然ですが、「スタニング」という言葉をご存知でしょうか?

恥ずかしながら僕は知りませんでした。

これは日本語で「気絶処理」と言われ、屠殺の際に生ずる動物の苦痛を軽減するために、先に意識を失わせてから行うというものです。

以下のデータをご覧ください。

羊 最大20秒
豚 最大25秒
牛 最大2分
家禽 最大2分30秒以上

魚 場合によって15分以上

Opinion of the Scientific Panel on Animal Health and Welfare (AHAW) on a request from the Commission related to welfare aspects of the main systems of stunning and killing the main commercial species of animals European Food Safety Authority (EFSA) 動物衛生福祉に関するEU科学研究グループAHAWレポート(2004年)

引用元サイト:宗教(ハラール)と畜-気絶処理(スタニング)無しの牛の屠殺

これは、スタニング無しで動物、魚の首を切り落として殺した際に、完全に無意識に至るまでにかかる時間を表したデータです。

この引用元のサイトは『HOPE for ANIMALS』というサイトで、ここでは屠殺方法の動画などショッキングなものも沢山ありますが、彼らの声は肉を食べる身として聴き続けていかないといけないなと思います。

いかがでしょうか。

この筆舌に尽くせぬ苦痛を我々は生き物を屠る時に与えているということです。

無論、スタニングしたからといって動物を殺すことの罪が軽減されるものではありませんが、極力苦痛を与えずに済む方法があるのであればそちらを取るべきであろうとは僕も思います。

アニマルライツ(動物の権利)の概念が大変進んでいるEU諸国では、すでにスタニング無しで屠殺された食肉の輸出禁止などの措置も取られており、ハラールに対しても、宗教上の事情をクリアした形でのスタニング方法が提案されています。(そんな設備を用意できるイスラム教国は経済的に潤ったところくらいでしょうが。)

しかし、このスタニングは安楽死では決してありません。現状ではガスを用いたスタニングが最も苦痛を軽減できると言われていますが、どんな方法を用いても苦痛を与えなければ屠殺はできないことには変わらないそうです。

僕は肉を食べるのが大好きです。そしてそれは動物の命を殺していただいているのだという自覚も持っていたつもりです。

しかしながら、屠殺がどれだけ多くの苦しみを動物に与えてきたのか、そしてそれを社会はどのように捉えているのか、そういった知識は全くありませんでした。

最近はヴィーガン(完全菜食主義)やフレキシタリアン(時々肉を食べる菜食中心の生活様式)という言葉がよくメディアなどで取り上げられますが、屠殺について知れば知るほど、「菜食になろうか・・・」と思ってしまいます。

ヴィーガンは特に強い考え方を持った方が目立つので、特に日本では批判的に取り上げられることが多くはありますが、僕もヴィーガンにはなれないでしょうが、少なくとも自分が食べる動物の命についてもう少し誠実になるべきなんだろうなと思います。

その一つとして、畜産について、屠殺について、「知る」ということは大切だと実感しました。

ちなみに日本の畜産はアニマルライツとは程遠い、非常に残虐なやり方での屠殺が日常的に行われているようです。

詳しくはこちらをご覧ください→日本の畜産が抱える闇:畜産業の日常化した動物虐待10選

 

僕はまだ結論をつけられない

「屠る」ということについて調べれば調べるほど、自分の無知を痛感させられた僕ですが、どうも腑に落ちないものがあります。

僕の友人に山で暮らし、自分で飼っている家畜を屠って食べている人がいます。

彼の話を聴いていると、自然や生き物への深い尊敬を感じます。命と共に生きているんだなぁ、といつも感銘を受けます。

また、ハラールも屠殺方法は残虐で批判されていますが、ハラール様式は生き物に対して命として一定の配慮を持ったルールがあります。

そして世界にはさまざまな民族があり、それぞれが文化・歴史を持っており、そこには必ず食があり、「屠る」ということが隣にあります。

それらの文化への西洋先進国的動物愛護の観点のみからの批判は、見方を変えれば失礼ながら傲慢にも映ります。

そして、僕たちの日本のことで言えば、そういった環境や動物たちに配慮した食材はありますが、高価なものがほとんどです。(ヴィーガンフードなんて結構高いです。)

生活水準が確実に下がり続けている日本の人々が主に買って食べているのはスーパーの安く売られている肉で、それらは先に挙げたような劣悪な環境で飼育され、残虐に屠殺されて流通した肉がほとんどなのかもしれません。

そういった社会の現実の中で、欧米のセレブたちに動物愛護や環境への配慮を叫ばれるとどうも釈然としないものがあります。

人の生活に関する問題提起は経済格差と切り離しては議論できないことであるとも思います。

ただ、人も動物も同じ大地を生きており、そこに敬意を払い、大切にして生きることは、貧富関係なく誰もが担っている課題なのでしょう。

結論の出ない話を長々と失礼しました。

ここについては、もっと様々な観点から調べてみようと思います。

関連記事