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ポリコレについて考えてみた〜言葉って難しい〜

ポリティカル・コレクトネス

俳優の松山ケンイチさんが出演した番組で、「髪は自分で切ったり、嫁に切ってもらってる。」と発言し、その「嫁」という言葉が女性蔑視に当たるということでSNSを中心に批判の的となりました。

いわゆる「ポリティカル・コレクトネス(政治的公正さ※以下ポリコレ)を巡る議論ですが、あなたはどう感じていますか?

「古い価値観からくるそういった言い回しは、より適した形にアップデートしないといけない。」という意見がある一方で、「そんなのは言葉狩りで、世の中を息苦しくするだけだ。」という意見もあります。

また、ポリコレを持ち出して他人を批判する人のことを揶揄する「ポリコレ棒」という言葉もあるようです。

ポリコレについて考える前に、まずこの言葉の意味について振り返ります。

「性・民族・宗教などによる差別や偏見、またそれに基づく社会制度・言語表現は是正すべきとする考え方」

『大辞林 第四版(松村明 編)』より引用

こう読んでみると、ポリコレの意義はもっともですね。

日本では最近広く使われるようになりましたが、言葉自体は80年代アメリカで社会運動の中で生まれた言葉だそうです。

 

多数派はポリコレに鈍感

この「性・民族・宗教などによる差別や偏見」というのは、そのほとんどがマジョリティ(多数派)からマイノリティ(少数派)に向けられています。つまりは、それに意義を唱える人は確実に少数なわけです。

「ホモ」という言葉は「男性の同性愛者」という意味で昔から広く知られ、使われていましたが、現在は「差別用語」として扱われており、「ゲイ」という言葉に取って替えられています。

私も幼い頃は、友人に冗談で「ホモ」という言葉でからかったりしていたような気がします。しかし、このポリコレが少しずつ浸透していく中で私はこの言葉が当事者の方を傷つける言葉であると気づき、改めようとなりました。

日本において私は、性も民族も宗教も、それを理由に周囲から偏見を持たれるような立場にはないと自覚しています。

つまり私はマジョリティ側にいる人間です。

だから、自分の何気ない発言がその当事者を深く傷つけているということに気づきにくいのです。

人から指摘されたり、TVやネットで取り上げられているのを見たりしない限り自覚することは難しいのです。

だからこそ、TVやネットなどのメディアでポリコレが叫ばれるのは大切なことだと思うのです。

たまに「日本には差別はない。」などと言う方がおられますが、それは自分が差別偏見を実感することなくこれまで生きてこられただけの話であって、「日本には」と一般化できる根拠はどこにもありません。

少し話が逸れますが、ある映画の台詞に「人間ってのは自分の傷には敏感で、他人の傷にはてんで鈍感な生き物だ。」という台詞があり、随分と経った今でも心に引っかかっています。

私は差別やポリコレについて考える際には、まずこの言葉を自分に言い聞かせるようにしています。

 

言葉狩りにならないために

とはいえ、いくら正論とはいえど、自分が悪気なく発した言葉を強く指摘されるとやはり気持ちはピリっとしてしまうのも無理ないと思います。

何より他人から「お前は差別者だ!」と言わんばかりに糾弾されると腹が立ってしまいますし、逆に「息苦しい言葉狩り」と解釈したり、意地を張ってしまったりしてしまうこともあるかと思います。

芸能人の不倫や失言が報じられた際も、その人の人格を根本から否定するような言葉がよく見られますが、そういうのは批判ではなくただの暴力でしかないと思います。

いくら正しいことであっても、目の前の相手と「共に生きている」ということを見失った先により良い未来はないと思います。

有名なレゲエシンガーの故ボブ・マーリー氏が

指を指して人を非難する前に、君のその手が汚れていないか確かめてくれ。

ボブ・マーリー

という言葉を残しています。これは批判を封じるための言説ではなく、人を諭す時にも同じ課題を持つ同朋として向き合っていくことの大切さを説いているように私はいただいています。

とはいえ、言葉を丁寧に扱うというのは難しいものですね。冒頭の「嫁」という言葉に関しても、私も結婚したら相手のことを人に紹介する時に「僕の嫁です。」と言ってしまいそうなものですから。

ポリコレは「言葉」自体の問題提起でとても大事な問題ですが、原則として言葉は発する側の認識以上に受け手がどのように受け取るかどうかがより大切なことなので、やっぱり相手を思いやるってことに尽きるのでしょうね。

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