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「我がこと」として〜名古屋入管の女性死亡事件に思う〜

もう風前の灯にも思えた私たちの国・日本の民主主義に一筋の希望が差しました。

衆院を通過し、あわや強行採決にまで至りそうであった入管法改正案が、入管収容外国人の支援団体や弁護士たちによる座り込みの講義運動などもあって成立見送りとなったのです。

日本の入管(入国管理局)の外国人収容者への非情な扱いは以前からSNSやネットでは扱われていた問題ではありましたが、これがTVでも盛んに報じられるようになった(もう下火になっていますが)キッカケは、ある女性の死でした。

ウィシュマ・サンダマリさん。スリランカから英語教師を目指して2017年に来日された女性です。

彼女は学費を継続して払えなくなってしまったことで日本語学校の学籍を失い、さらに交際していたスリランカ人男性から激しいDVに晒されて警察に相談。そこで在留資格がないことが発覚して昨年8月に名古屋入国管理局収容施設に入れられ、今年3月6日に亡くなりました。33歳でした。

今年1月に体調を崩し、下痢や血混じりの嘔吐を繰り返しており明らかに危険な状況であったにもかかわらず、診察した医師が求めた点滴などの治療を「時間がかかる」などの理由で入管が拒否。そして亡くなる日の朝、入管職員が脈拍と血圧を測ると測定不能の状態であることが判明したにも関わらず救急車も呼ばず、結局午後になって完全に呼びかけに応じられなくなったウィシュマさんはようやく病院へ搬送されましたがもう手遅れで亡くなりました。(この事件の詳細はこちらの記事をご覧くさだい。 : 親日家女性の痛ましすぎる死―「日本は安全な国だと思ってた」母親らが会見で涙(Yahoo!ニュース ジャーナリスト志葉玲 氏の記事))

そして、このブログでは日本の難民受け入れの制度上の問題などについては割愛させていただきますが、大変大事な問題ですので、最後に是非読んでいただきたい記事のリンクを載せますので、少しでも関心を持っていただけた方は一読いただければ幸いです。

 

「ガイジン」という言葉が持つ排他性

この入管や難民受け入れに関する問題を論じる上で、必ず出てくるのが「外国人受け入れで治安が悪化する」という意見です。

しかし、データ上では外国人の犯罪検挙率は人口に対してわずか0.4%。これは日本人による犯罪検挙率の半分にも満たない数字です。

単に、外国人が起こした犯罪は記憶に残りやすく、それらが報じられる度に「外国人=危険」というイメージが刷り込まれているだけなのです。

しかしこの「イメージ」、つまり先入観ですね。これは非常に根が深い問題に思えます。

日頃からよく外国人を指す言葉として「ガイジン(外人)」という言葉が使われます。

このガイジンという言葉を大辞林(三省堂 第4版)で調べてみますと、「外国の人」という意味の他に「内輪でない人」「外部の人」という意味がありました。

使う側は悪気なく「外国の人」という意味で使っているものだと思いますが、こういう言葉は「内輪でない人」を作り出す装置にもなります。言葉として同質でないものを作り出し、その対象を自分たちの「外」に置き去りにしてしまうような、そういうものを感じます。

 

そもそも「日本人」とは何なのか

こういう発想を持っていると、今度は外国人を受け入れるにしても、条件を出すのです。

それが「同化」です。その人が元より持っているアイデンティティを収奪し、「日本人」になることを迫ります。

在日外国人でありながら、他の在日外国人に対して非常に攻撃的な言動を取るタレントの方などがおられますが、そういう人を「日本人的」だと称賛します。自分たちの偏見や嫌悪に基づく排他感情を代弁してくれる外国人を「名誉日本人」的に扱うというな構造はそこから生まれるのでしょう。

しかし、彼らが言う「日本人」というのは「日本国」という国家に帰属した民ということであり、民族性というよりはただの観念に過ぎないように思います。

最近は書店に入ると必ず目立つ所に「日本スゴイ!」と愛国心を煽る書籍がズラリと並んでいるのを目にしますが、彼らのいう「日本」という国家観は明治以降の改革の中で生まれた天皇中心の国家観でしかなく、江戸以前はもっと細かく「くに」として分かれていたので、人々の間で「自分は日本人だ」という自覚はなかったそうです。

つまりさまざまな地域に根ざしたアイデンティティが明治維新以降に天皇を中心とする「日本国」に吸収されて「くにの人」から「国家の人」とされていったのです。

僕は「日本人」という括りそのものがいい加減なものだなあと思います。

日本を「我が国」だとしながら、沖縄の基地問題やアイヌ民族への差別、部落差別の問題、そして今回の入管の横暴は「我がこと」にならないのです。

厳しい言い方ですが、それは結局のところ、日本という「国家」にぶら下がってるだけで、「民族」としての自覚もなにも持ち合わせていないことの証左ではないでしょうか。

「日本人」という言葉を使うにしても、「日本人である自分」に誇りを持つということは、自分の国、民族の業を引き受け、その未来に責任を持つことで初めて成り立つのだと思います。

 

敵は外国人なのか

さらに混迷を極める経済状況の下では、人々の生活が圧迫され、さらに精神的に余裕がなくなります。

その歪みは間違いなく、近隣国や在日の外国人への嫌悪感情をより深めることになると思います。

為政者は国民の不満が自分たちへ向かないように、別の方向に敵を作ろうとするのが常です。

そのような時だからこそ、僕たちがどんな世の中を生きたいのか、それを脅かすものの正体は何なのかを静かに見つめていくことが大切なのだと思います。

自分の民族に誇りを持つことと、他の民族を尊重し、共に生きることは本当に両立できないものなのか。

人権侵害や差別問題を単なる「社会問題のひとつ」としてではなく、自分自身の根底からくる願いに聴いていけば、自ずと「我がこと」になっていくのではないかと思います。

敵はどこまでも自分自身の内側にあります。

入管の問題において、政治責任が問われるのは当然でありますが、そのような構造を作り上げてきた僕たちの意識にも責任の一端があるのではないでしょうか。

最後に、前回の記事でも紹介させていただいた故 中村哲さんの本のあとがきにあった、僕が非常に感銘を受けた言葉を紹介させてください。

今、内外を見渡すと、信ずべき既成の「正義」や「進歩」に対する信頼が失われ、出口のない閉塞感や絶望に覆われているように思える。(中略)強調したかったのは、人が人である限り、失ってはならぬものを守る限り、破局を恐れて「不安の運動」に惑わされる必要はないということである。人が守らねばならぬものは、そう多くはない。そして人間の希望は観念の中で捏造できるものではない。

ちくま文庫『アフガニスタンの診療所から』中村哲 著

この事件で犠牲になったウィシュマさん、そのご遺族には謹んで哀悼の意を表します。

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