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僕のドキュメンタリーの見方

前回の記事「屠るということ」でも書きましたが、最近ドキュメンタリー映像をよく観ています。

日本や海外の食や風習などの文化的なものから、貧困や戦争のような社会問題、また自然科学系のものに至るまで色々なジャンルのものを観ているのですが、次第にこんなことを思うようになりました。

「僕はこの映像に映る人たちを消費しているのではないか?」

ドキュメンタリーは知的好奇心を刺激します。「知りたい」という気持ちは学びの原点ですし、僕はすごく大切なことだと思っています。

しかしその視点は時に大切なことを見えなくさせてしまうのではないでしょうか。

 

映されているのは情報でなく人である

ここが非常に大切なところだと思います。

現在はコロナ禍なので停滞していますが、「You-Tube」では海外の「ヤバい」場所(国の情勢や貧困によって治安がかなり悪化している地域や、日本人の感覚では理解できない文化を有している地域)を訪れ、そこの人たちを映し、時にはコミュニケーションを取っている動画が沢山挙げられています。

僕もフィリピンをはじめ東南アジアのスラムを訪れたことは何度かあり、興味本位で観てもいるので文句を言える立場でもないのですが、そういった動画の中での投稿者の方々の振る舞いを見ていて首を傾げてしまうことがしばしばあります。

You-Tuberという生業は、インパクトのあるサムネイル画像で閲覧者の興味を惹きつけて動画に誘導し、また動画も他の投稿者と差別化できるようなコンテンツを企画・実行し続ける必要があるビジネスですから、そういう意味では当然なのですが、どうも彼らがカメラを向けているのは紛れもなく人間であるという自覚というか敬意のようなものを感じられないことがあります。

少し自分の経験をお話ししますが、僕は5年ほど前にフィリピン・マニラのケソン市という町にある「第二のスモーキーマウンテン(有毒ガスを発生させるゴミの山)」と呼ばれるパヤタス・ダンプサイトというとても巨大なスラムを訪れたことがあります。

(パヤタス・ダンプサイトについては、こちらのページを参照ください。→認定NPO法人ソルト・パヤタス

そのようなスラム地域というのは、急速な経済成長を目指す国の方針の犠牲にされて追いやられた人々によって形成された地域が多くあります。

その地区に入った時の住民たちの警戒したような目線は正直怖かったですが、僕自身もTVやネットの情報ではなく、自分で触れて知りたいという気持ちが強かったので、現地後で挨拶をしながら実際に周り、住民の方と少しばかり交流もできました。

あくまで主観ですが、都市のど真ん中のメトロマニラよりも、「アジア最凶地区」などと嘯かれるようなスラムの方が、気さくな人が多いように感じました。

しかし、あの警戒の目線は「自分たちの居住地に興味本位で土足で踏み込んでくる失礼な外国人」への目線だったのかもしれません。

 

パヤタスの集落で撮影した一枚 (2016年2月)。すぐに温かく迎えてくれた優しい人たち。

 

そんな気持ちもあって、微笑を浮かべてカメラを回しながら歩き、馴れ馴れしく住民に絡んでいるようなユーチューバーやメディアスタッフを見ているとやはり違和感を覚えます。

「カメラを向けるな」というわけではなく、その目的の意義と被写体になる人に対してどのような認識で向き合っているのかいう問題です。

これは僕が好んで観ているメディアにも感じることがしばしばありました。

ドキュメンタリーにしてもバラエティやユーチューバーの投稿にしても、著名人でない一般の人をカメラに映す場合、ましてや異文化の中で生活する人が相手であるなら尚更、最大限の敬意を払って臨むべきであると思います。

TV番組の場合は謝礼もしているのでしょうが、お金を払えばいいというものでもないでしょう。

僕自身もこれから取材活動を初める準備をしているので、自分が観る側として感じた違和感は大事にし続けたいものです。

 

共に生きる者として

世界には日本にいたら想像もできないような文化的・社会的背景を持った国や地域、そして人があり、その現実を克明に映したドキュメンタリー映像は多く制作されていますし、誰もが一度は目にした経験もあることだと思います。

僕はドキュメンタリー映像を通じて、色々なことを教わりました。

無数にある興味深い文化や、自分の物差しでは量り知れない人生観、そして理不尽な慣習や戦争や貧困の悲惨さと、そこに生きる人々。

多くを知ることは、自分の人生を生きる上で多くのヒントを得ることになると思っています。

知る、それ自体が大切なのは言わずもがなですが、それだけでは、単に自分の知的欲求を満たす材料として消費して終わり、「分かったこと」として過ぎていってしまうのではないかと思うのです。

しかし、そこに映っているのは、自分の全く外の話ではなく、自分と同じ世界を共にしている人間です。

大切なことは、それらに触れようとする感覚ではないでしょうか。

例えば貧困問題を考える上でも、そのような状況下に置かれている人々の生活や表情の中にあるのは本当に「貧しさ」だけなのか。

ならば果たして僕は胸を張って「豊か」と言えるのだろうか。

このように問題を自分の外に置くのではなく、問題によって自分自身が問われていくような、そういう向き合い方が「触れる」ということではないかと思っています。

余談ですが、最近はTV番組などでの出演者の問題発言が炎上したりすることが多いですが、見る側が問われているという側面もあるのかも知れませんね。

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