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僕が東京五輪に思う違和感

前の記事から少し間が開きました。

その間に東京五輪が開幕しましたね。個人的に色々な理由から五輪開催には反対の立場でしたが、このブログは議論の場ではないのでこのトピックについて僕の考えを書くことは避けてきましたが、今の日本の空気感に強い違和感を覚えたので、やっぱりこの公の場で書かせてもらおうと思い筆を持ちました。(実際は筆でもペンでもなくキーボードですが)

不祥事や問題発言など、批判すべきことはたくさんありますが、言い出すとキリがないので、諸々は端折って僕が特に感じていることだけをしたためます。

 

五輪はただの「スポーツの祭典」ではない

まず最初に言っておきたいのは、五輪は単なる「スポーツの祭典」ではなく、極めて政治色の強い行事だということです。

平和の祭典のという謳い文句の裏では、巨額の金銭が動いていますし、当然五輪に関わる事業を一部の企業が請け負っている利権問題もあります。

そしてオリンピック憲章では、五輪の政治利用は禁止されていますが、前回リオ五輪の閉会式では安倍晋三首相(当時)がマリオのコスプレで登場し、国内向けに政権をアピールしていました。これを政治利用と言わず何と言えるでしょうか。

過去にはナチスドイツのヒトラーが1936年のベルリン五輪で「アーリア人の優位性」を喧伝するプロパガンダを全面に出し、国威発揚の場として五輪を政治利用した歴史もあります。

五輪は政治から完全に独立したものではなく、むしろ極めて政治的な目的のために利用されやすい性質を持つ行事と言えます。

 

「復興五輪」はどこへ

当初、東京五輪2020の大義名分は「復興五輪」でした。

2011年の東日本大震災からの復興を謳って五輪を招致したはずでしたが、コロナ禍の中でいつの間にか「コロナに打ち勝った証としての五輪(’20.03.04 安倍首相(当時)が発言)」となったように、彼らは単に美辞麗句を並べているだけで何ら一貫性もない軽薄な宣伝文句を謳っているだけで、そこには何の大義もありません。

そして、2021年から向こう5年間の被災地復興のための予算は、2016年からの5年間の予算(6兆5000億円)と比較して4分の1以下の1兆6000億円に減額されました。

特に原発被災者の方々については、未だに避難生活を強いられ元の生活を取り戻せていない人、PTSDなどによる精神障害などを抱えた人々がたくさんいらっしゃいます。彼らの中で年間所得が600万円以下の世帯へ行われていた医療費の一部負担金免除の措置も今月いっぱいで打ち切られようとしています。

その一方で五輪の予算は当初の予算額から何度も増額を重ねて今や関連地方の予算額も含めれば3兆円を超えるとも予想されています。

あの震災から10年が経ちましたが、「復興」と声高らかに謳えるような状況ではないのです。

「コロナに打ち勝った証」については言わずもがなです。

 

無責任な自粛要請で潰れていった飲食店やライブハウス

また、現在東京は緊急事態宣言の真っ最中です。

緊急事態宣言が出ている地域に海外から多くの人を招いて世界的規模のイベントを行うこと自体が正気の沙汰ではないですが、飲食店やイベントスペースには自粛を強いながらの開催です。

僕の馴染みのお店は東京にはありませんが、このコロナ禍で僕の大事な場所がいくつか無くなりました。

延々と続く居酒屋の酒提供の禁止や、足りない補償金に苦しみ、酒提供を決行せざるを得ないお店があるという話も聞きます。

そして、酒の卸売業者を初め、補償が行き届いていない業種も多くあり、中小企業が次々と倒産している現実があります。

今はずいぶんマシになりましたが、飲食店やライブハウスへの社会の敵意を煽る報道や為政者の発言、大事にしていた生活や居場所を「不要不急」の一言を以って否定された人々を思えば、「スポーツで感動を届ける!」などとエモーショナルに言われても、どうしてもそれを肯定的に捉えることはできないのです。

 

「せっかくだから楽しもう」的空気の不気味さ

そして、五輪が始まった今、それまでは批判的だった報道番組なども今や五輪一色で、せっかくだからこのスポーツを楽しもうじゃないかという空気が蔓延しています。

逆に色々と文句を言う人間の方が「面倒臭い人」的に思われることだと思います。

僕は正直言ってこの空気感がとても嫌いです。

今更文句言っても仕方がないから・・・という考え方は、戦時中の一億玉砕的発想と何ら変わりませんし、そういった民衆の諦めが為政者が全体主義体制を作り出すことを後押ししてきたのです。

もちろんこの時のために長年努力してきたアスリートの方々や、彼らを支えてきた周囲の人々からすれば、夢を叶えたいという気持ちは理解できます。

またスポーツが好きだから、純粋に観戦を楽しみたい人もたくさんおられるでしょうし、それ自体に水を差すのは本意ではありません。

しかしそれでも僕は、この五輪が開催に至った経緯や、この国全体に蔓延している五輪一色の空気の不気味さ、そして今まさに生活を奪われ、保障も満足に受けられずに苦しんで生きている人々について、少しだけでも立ち止まって考えてみてもらえたらと思います。

少々まとまりの悪い文になり恐縮ですが、読んでいただきありがとうございました。

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