寝苦しい夜 -能力主義のディストピア-
突然ですが「メリトクラシー」という言葉をご存知でしょうか?
これは所謂「能力主義」を指す言葉で、イギリスの社会学者のマイケル・ヤングによって著され、1958年に出版された『メリトクラシーの夜明け』というS F小説が由来です。
人種や身分などの自己決定のできない要因からではなく、個人の知能指数や努力によってその人の地位が決められるという考え方を意味します。
良く言えば差別の否定、悪く言えばエリート主義ですね。この考え方は今の日本を取り巻く新自由主義的発想と著しく似通っているように感じます。
メリトクラシー≒能力主義の正当性
人種差別やジェンダー差別というと、おそらくほとんどの方が「良くないことだ」と感じると思います。(実際に差別心があるとかないとかは置いておいて。)
しかし、能力主義の下でそれぞれの地位に差が生じるのは自然ですよね。
僕が貧富の格差について話す時によく主張してきたこととして、「スタートラインを合わせる(機会の平等)」ということがありました。
要するに、生まれた家の経済力や人種やジェンダーなど、自己決定では変えることのできない属性的な部分を平等化し、そこからの自由競争が健全であるということですね。
リベラル的思考の方々が大体共通して持っている考え方ではないでしょうか。
実現の可否は別として、そういう社会は差別の解消や格差の是正の先にあるユートピア的な捉え方ができるのではと思います。
そんな社会が実現すれば素晴らしいですね。
メリトクラシーの考え方も同じです。人種や階級、ジェンダーではなく、実力で評価されるべきであるということですね。
貴族的な権力構造を否定し、その人の能力で地位が決められるべきであるという、一見すれば極めてフェアな考え方です。
しかしここには二つの落とし穴があります。
メリトクラシーの落とし穴①「自己責任論に基づく福祉社会の否定」
まず一つが、メリトクラシーは福祉社会の否定に繋がりやすい考え方といえます。
能力主義社会では、フェアな競争の上で生まれる格差を是とし、そこから落ちこぼれた存在は「努力不足による自己責任」と見做されることとなります。
例えば、アメリカ社会の福祉への消極性はこのメリトクラシーの考え方に基づいていると言っても良いでしょう。
日本にもメリトクラシー的なインフルエンサーが数多く存在します。
その一人が橋下徹 元大阪府知事・元大阪市長です。
大阪で圧倒的人気を誇る「大阪維新の会」の原型を作った橋下徹氏は大阪府知事時代に、貧困による学習困難の窮状を訴え、私学助成削減の撤回を求めた高校生たちと対談した際にこのような言葉で彼らを一蹴しました。
「努力して公立に行けば良いだけ。」
これは単に橋下氏が冷酷だということではなくて、彼自身の経験に基づいた言葉でしょう。
橋下氏は父を亡くし、決して経済的に裕福とは言えない状況下で学業・スポーツ共に努力を重ね、浪人を経て一流の大学に入り、弁護士となっています。まさに叩き上げ、「努力の人」です。
そしておそらくですが橋下氏はこれらの成功を自身が才能に恵まれた特別な人間だからではなく、「頑張ったら誰でもできる」のだと考えているのでしょう。
だから、彼から見て努力の足りない経済的弱者は、社会が手を差し伸べる前にもっと自分が頑張るべきだと言いたかったのかもしれません。
しかし、私たちが生きる社会には、橋下氏のような「優秀な人」と、身体的にいくら健康体であっても「努力をしたくてもできない人」や「努力したものの間に合わなかった人」とが同じ場所で生きています。
それを「甘え」と言われればそれまでですが、皆が同じようなメンタルの強さや集中力を持ち合わせているわけではありませんし、人が優秀な結果を残せるかどうかは、努力以外にも様々な要因があります。
僕は6年ほど個別指導塾の講師をしていたことがありましたが、少しやる気を出せば短期間で学力を一気に上げた子がいれば、ずっとひたむきに頑張っているにも関わらず一向に結果にあらわれない子もいました。
僕の講師としての技量もあるでしょうが、それを踏まえても、皆が一同に「やればできる」というわけでは決してないことは断言できます。
「できない」という現状に何の言い訳も許さず、十把一絡げに「努力」という単純な指標で量り、自己責任論に矮小化し、福祉制度の拡大を拒否するという社会が、本当に健全な社会と言えるでしょうか。
これはあくまで主観的観測ですが、僕くらいの世代(20〜30代)の人にとっては、このメリトクラシー的価値観からくる自己責任論がもはや主流な考え方になっているように思います。
メリトクラシーの落とし穴②「才能という新たな差別構造(優生思想との親和性)」
次は、メリトクラシーの考え方に欠落しているのは、見えない格差の存在です。
それは「才能」です。
こんなことを書くとブーイングが飛んできそうですね。
なぜなら我々日本人の多くは、少年漫画の影響からか、「才能の所為にするのは逃げである」という美徳があるからです。
確かに、「自分には才能がないから」と不貞腐れて、努力をやめてしまったり怠けてしまったりすることが褒められたものではないことは言うまでもありません。
しかしその一方で、スポーツ界のスーパースターや、子どもでありながら大人顔負けのパフォーマンスを見せるスーパーキッズのような存在は「天才」という言葉で褒め称えます。
そのような卓越した能力を持つ人を「天才」と持ち上げながら、できない人には「才能の所為にするな」と言い放つのは些かの矛盾を感じずにはいれません。
才能による能力の違いというのは明確に存在するということです。
そしてそれは努力の才能にも言えます。
実際にマイケル・トレッドウェイという方の研究チームが発表した論文で、努力を継続できる人とできない人とでは脳の構造に違いがあるという研究結果が得られたことが報告されています。
何が言いたいのかということですが、自己決定で決められないことは、人種、階級やジェンダー、また育て親の経済力だけではないということです。
ADHD(多動性症候群)や双極性障害が長らく、また現在も「甘え」と見做されることがあるように、僕たちは肌感で感知できないものに対し想像力を働かせるのが難しい傾向にあるのかもしれません。メリトクラシーにはそういった「認知不足の自覚」が欠如しているのではないでしょうか。
さて、努力の才能と脳の構造の相関について先述しましたが、ここに繋がるのが、最近耳にすることが増えた「優生思想」という言葉です。
優生思想とは、身体的または精神的に優秀な遺伝子を残し、また劣った遺伝子を排除し、より良い遺伝子を後生に残しておこうという発想のことを言います。
以前、歌手の野田洋次郎氏が、「大谷翔平選手や藤井聡太棋士や芦田愛菜さんみたいなお化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないかと思ってる。」とツイッターで発言して炎上した際に、この発想がまさに優生思想であると批判を受けました。
しかし一方、アメリカの精子バンクではドナー登録する為の条件として、希望者本人とその家族の病歴に加え、本人の身長や学歴にも最低条件が定められ、希望者の内「上位」と認められた1%ほどしかドナー登録に漕ぎ着けないそうです。
まさに野田氏のツイートの様なことが実際に行われているのです。
先述の通りメリトクラシーとは、優秀な能力を持つものが高い地位に立つべきという考え方です。
そしてその優秀さを追い求めた先には、努力主義に加え、この優生思想、つまり「遺伝子の差別」が必然的に生まれるのではないでしょうか。
僕はそのように思います。
そもそも「能力」とは何なのか
ここまでメリトクラシーに欠けている認識について書きましたが、そもそもこの場合の「能力」とは何を指すのでしょうか。
これは社会にとっての価値を生み出す力ですね。
経済力があり高額な税金を納める人や、スポーツや芸術などの文化および学術における名誉を社会に寄与できる人が「能力のある人」ということだと思います。これは「生産性」という言葉に言い換えられます。
そのような高い生産性を持つ人だけが高い地位に立つことが、本当に全ての人にとってフェアで健全な社会に繋がるのでしょうか。
僕は人間というのはそんな単純な存在ではないと思っています。
階級差別は断固否定されるべきですが、メリトクラシーのいく末もエリート主義という新たな階級社会ではないでしょうか。
生産性で人の価値を量り、そこにそぐわない者は切り捨てれられる社会、そんな新たなディストピアに向かって、僕らの国も着実に向かっているように思います。
能力や生産性を「秤(はかり)」とすることが、僕らの命への答えなのでしょうか。
僕は頷きたくないので、そうでない答えに人生の中で出会えたらいいなと思います。
皆さんはどう考えますか?機会があればぜひ聴かせてください。
P.S.
ちなみにこの本のラストは、能力主義に由来するエリート社会に排除された大衆が反乱を起こし、エリート社会は崩壊した、というものだそうです。一度読んでみようかと思ってます。