円龍寺通信 2023年2月号「社会学的想像力」
寒い日々が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
今回は、「社会学的想像力」という、もうずいぶん前にお亡くなりになったライト・ミルズという社会学者の言葉を表題にお話しさせていただこうと思います。
この言葉は1959年に発表されたミルズの著作ですが、2000年代前半の小泉政権における構造改革以降新自由主義的改革が進み、「自己責任」という言葉が闊歩する現代において、改めて意義深く受け止められています。
社会学的想像力とは、個人の問題と社会の問題をつなげる力のことを指します。例えばアルコール中毒によって人生を壊してしまった人に対して、同じ境遇でもアルコール依存に陥らない人もいる以上、個人の意思による選択を誤った、つまり自己責任、その人の問題であると私どもは考えてしまいがちです。しかし、ミルズは私たちの生活には罠が仕掛けられていると指摘します。
曰く、自分の意思でしているつもりの生活が、実は個人の力では抗いようのない全体社会の構造そのものに生じる動きに支配されているというのです。
このミルズの視点で今の社会を見てみると、少し見え方が変わってくるかもしれません。先に例に挙げたアルコール依存に陥った人についても、一見して自己責任と片づけてしまうのではなく、その人をアルコール依存に至らしめるような社会の構造があったのではないか?と想像してみた時に、私たちの社会が抱えている本質的な問題が見えてくるのではないでしょうか。そして私たち自身がそれぞれ内に抱えている生き辛さも、実は私たち個人の問題としてだけではなく、社会の構造的な文脈の中で引き起こされているのかもしれません。
こういう話をすると、「何でも社会のせいにするのは良くない」とお思いになる方も少なくないだろうと思いますが、それこそ、私たちにそのような考えを持たせるような「罠」が社会構造や歴史の中に仕掛けられているというのがミルズの考え方です。
宗祖親鸞聖人は「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉で、きっかけや状況次第でどんなことでもしでかしてしまう人間の事実を言い当てておられますが、今日の社会において、ある種の道徳観念のように存在している「自己責任論」というのは、そのような人間が置かれている事実をすべて切り取って単純化した、自己に対しても社会に対しても極めて無責任な考え方ではないかと思います。
決して「すべて社会のせいにすればよい」という意味ではなくあくまで「見方」についてのお話ですが、多くの人を置き去りにしていく現代社会を生きる上では、非常に重要な視点ではないかと思います。
厳しい寒さが続きますので、暖かくしてお過ごしください。