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ブルシットジョブ -人は何のために働くのか-

ブルシットジョブ

「ブルシットジョブ」という言葉を最近よく目にします。

ブルシットとは英語で「牛の糞」という意味というので、日本語では「クソどうでもいい仕事」という意味で使われています。

このブルシットジョブ、アメリカではドアマンなどの誰かを権威付けするためだけの仕事など、つまり「何も生み出していない(と見做される)仕事」のことを指す言葉で、収入などの要素で分類されるものではないのですが、日本では専ら資格や高い技能が求められない、つまり「簡単に替えが効く仕事」または「まもなくAIに取ってかわられる仕事」という意味で使用されている印象です。

日本人は昔から「職業に貴賎なし」という道徳感を形骸的ながらも持っていましたが、最近はそのような「綺麗事」は淘汰され、私たち若者の主題は「いかにブルシットジョブをに就くことを免れるか」となっています。

つまり、「生産において必要とされる人間にならねば先はない」という強迫的な言説に支配されているような状態とも言えます。

それは良い意味でモチベーションになることもあるかと思いますが、その一方でこの「クソどうでもいい仕事」という言葉は、そう見做された職に就く人の尊厳と誇りをひどく傷つけ、「要る者」と「要らない者」とに社会を真っ二つに分断します。これがエリートと非エリートという新たな階級を作り出します。

果たして、このような風潮は本当に私たちの社会をより善くするものでしょうか。

 

人は何のため働くのか -ベーシックインカム(BI)を通して考える

「お金を稼ぐため」

こう問われるとやはり多くの方がこう答えることだと思います。僕ももちろんそうです。

確かに一番の理由はここになるかと思いますが、果たしてそれだけでしょうか?

これは全ての人に共通しているとは断言できませんが、例えば「ベーシックインカム」が実現したことをイメージしてみてください。

「ベーシックインカム(以下BI)」とは

ベーシックインカム(英: Universal basic income, basic income, UBI など)は

最低限所得保障の一種で、政府がすべての国民に対して一定の現金を定期的に支給するという政策

引用元: Wikipedia

つまり、何もしなくても一定の現金が毎月振り込まれる装置のようなものですね。

生活保護とは違い、全国民(小人も含めて)に支給されるので、非常に手厚い福祉政策と言えます。

BIの社会実験が2017〜2018年にかけて、高福祉国家として高名な北欧のフィンランドにおいて行われました。

無作為抽出された2000人の失業保険受給者に、無条件で日本円で約65,000円を支給し、雇用の改善ににどう影響するのかを見るという調査です。

残念ながらこの実験では、BIが雇用につながるという結果にはなりませんでしたが、小タイトル「人は何のために働くのか」に関連する興味深い結果が見られました。

BIがボランティアなどの社会貢献、社会参加に繋がったケースが見られたことです。

支給額は失業者にとって決して生活できるだけの十分な金額ではありませんが、賃金の低い仕事でもBIで補うことで生活が安定し、それが社会に対する信頼や心の余裕となり、社会活動に繋がったという結果です。

これを見ると、人が働く動機はどうも「お金を稼ぐため」だけではないように思えますね。

人は独立した一存在でではありますが、決して関係性をなくして生きることはできません。

だからこそ、お金つまり貨幣という概念が成り立つというものですが、そのお金は価値の一つの尺度、言い換えれば「幸せの一尺度」に過ぎないのです。

お金だけで人生が豊かになることはないと、ほとんどの人が意識的または無意識的に気づいているから、人は多様な幸福追求の手段を見つけます。

彼らがBIの結果、社会活動に前向きになった理由は、「共同体に貢献する存在でありたい。」という一種の幸福追求ではないかと私は受け取っています。

先述にもあげましたが、人は関係性の中で生きています。そしてその中で「自分」というアイデンティティを見出します。そのアイデンティティ、存在意義を特に感じられるのは「誰か(つまり共同体の仲間)に必要とされること」です。

社会(共同体※家族や友達関係なども含めて)に参加し、そこで承認を得ることで、初めて満たされるのが人間という存在です。

業が深い、というか非常に欲張りで厄介な存在ですね(笑)

最近はFIRE(若い内に一生分のお金を稼いで早期リタイアして、残りの人生を仕事に縛られず好きに生きるという生き方)という言葉を、僕の世代の人は特に耳にすることが増えてきたように思えますが、僕はそれを実現した幸運な人の多くが、お金を伴わない何かしらの仕事を始めると予想します。

逆に誰からも邪魔されない、完全に独立という状態は、独立というよりも「孤立」であるからです。

繰り返しますが、私たちはただ生産するために、ただお金を稼ぐために働いているのではありません。働くことで共同体(社会)に参加し、そしてささやかであっても人や共同体に貢献することで自己承認を得るという意味が労働にはあります。

高い能力や収入を持つ人も、それを持たない人も、それぞれが互いを見える所、見えない所で支え合っているのが本来の人間社会というもののあり方ではないでしょうか。

 

僕らが恐がるべきもの

「私たちの社会がもし存続できるなら、いずれ、清掃作業員に敬意を払うようになるでしょう。

考えてみれば、私たちが出すごみを集める人は、医者と同じくらい大切です。

なぜなら、彼らが仕事をしなければ、病気が蔓延するからです。

どんな仕事にも尊厳があります。」

マーティン・ルーサー・キング Jr

これはキング牧師の言葉ですが、私たち、とりわけ私のように若い世代の人は今一度この言葉の意味を真剣に考えるべき時なの知れません。

本当に恐がるべきは、ブルシットジョブと呼ばれる仕事に就くことではなく、そのような言葉で働く人を侮辱し、嘲り、尊厳を踏み躙る暗く悲しい社会ではないでしょうか。

マルクスの言葉を拝借しますが、仕事や労働は人間を人間たらしめるものです。これは家事や育児というものについても言えるます。

貨幣経済が始まるずっと以前から、もっと言えば人間の歴史の始まりから人間存在の中心として仕事の存在があったのですから、貨幣に変換できるもののみが仕事という理解は少し粗すぎるでしょう。

真宗の教学者であります藤本正樹氏は著書『地上に立つ宗教』の中で、現代日本社会における労働をマルクスの「疎外された労働」という言葉を引用して表現されています。

人間を人間たらしめる、人間を回復される行である労働が、行き過ぎた資本主義、貨幣主義の中では逆に人間を疎外し、尊厳を傷つけるものに変わってしまっているのでしょう。

そしてこの流れは、経済不況とAIを発展によってより加速していくでしょうし、それ自体を止めることはもはや不可能ですけれども、そういう時代の中でこそ、人間が問われているのだと私は思います。

真宗大谷派の宗憲の前文に「同朋社会」という言葉がありますが、これは言い換えれば「人間を尊敬する社会」です。

生き残るために生き、芥川龍之介の小説よろしくこぼれ落ちていく人を蹴落としていくようなあり方の先に待っているのは地獄しかないでしょう。

今一度、人間にとって「働くということ」の根源的な意味を考える必要があるフェーズに、僕たちの時代は入ってきているのだろうと思う今日この頃です。

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