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いのちの値打ち-津久井やまゆり園の事件に思う-

あの事件から5年が経とうとしています。

2016年7月26日に神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で起きた殺人事件です。

19人の入所者の方々の命が奪われ、職員含む26人の方が重軽傷を負った「戦後最悪の大量殺人事件」と称されています。
(事件の概要はWikipedia「相模原障害者施設殺傷事件」よりご覧ください。)

この事件は、その凶悪性だけでなく、やまゆり園の元職員でもある犯人・植松聖氏(死刑囚)の思想表現も世間の関心を集めました

 

植松氏に共感する一部のネットユーザーたち

植松氏は重度・重複の障がいを持つ人々を「心失者(人の心を失った存在)」と表現し、「社会に寄生し、不幸をばら撒く存在」としました。

その考え方に基づいて「障がい者などいなくなればいい」と言う主張を犯行前から繰り返し、「日本と世界の平和の為に」犯行を行うと明言していました。

そういった主張は当然受け入れられるものではなく、実際に犯行前にその主張をめぐって友人と口論になり、殴られているそうです。

しかし一方で、彼の考え方に共感する人々がネットには一定数います。

「ネットにいる」ということは、実社会でこういった公言するのは憚れると分かりつつも、心の中では植松氏の共感していると言う人が一定数存在するということでしょう。

中には、「植松はぶっちゃけ、障害者という税金食い潰すだけのやつらを殺処分した英雄(原文ママ)」、「遺族は自分で面倒見きれないから、金を払って施設に押し付けてたんだろ。殺してくれた植松に感謝すべき(原文ママ)」のような、障がいを持つ子を持つご家族が直面する様々な現実的な事情を推し量ることもなく、二重の苦しみを与えるような悪質な書き込みもありました。

 

「生産性」という価値基準

ここで一つ僕が考えたいことは、現代社会に生きる僕たちがどういう価値基準を持って人を見ているのかということです。

多くのメディアではナチス・ドイツの優生思想と関連づけられたりしていますが、僕はより単純なものとして見ています。

数年前に自民党の杉田水脈議員が「LGBTは子どもを作らないので生産性がない。そこに税金を投入するのはいかがなものか。」という主旨の発言をして大きな批判を浴びたことがありました。

その中にあった「生産性」という言葉が僕らの価値基準ではないでしょうか。

社会経済において生産性ということは大切です。今、僕たちはそれなりに便利な生活を送れているのは、過去から現在にかけて色々な人々が生産性の向上のために尽力してこられたおかげですから。

また「コスパ(コストパフォーマンス:価格と性能の比)」もモノの価値を測る基準になっています。

しかし、その「生産性」や「コスパ」で人間の価値を決めるというのは恐ろしいことではないでしょうか。

働ける人、子どもを産む人は生産性があるから価値がある、そして身体的、精神的な様々な理由で働けない人、不妊症などで子どもを産みたくても産めなかった人、また、自ら産まないという選択をした人、また社会保障で生きている人は生産性がないから価値がない。と、こうなります。

またこの価値には、人気や人望のようなものも含まれてくるのかもしれません。

それはもう地獄ですね。

人間性が奪われていく世界です。一体誰がそんな世界で生きたいと望むでしょうか。

しかし今、僕たちが作ろうとしているのは、まさにそういう世界ではないでしょうか。

 

「生産性」という基準を内面化する僕

一昨年前に、京都で難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)患者であった女性が自らの意思で自らの殺害を依頼し、それを実行した医師二人が嘱託殺人の容疑で逮捕されたという事件をきっかけに、尊厳死(事実上、安楽死)についての議論が盛んに取り上げられていた時期がありました。

その中で尊厳死を前向きに捉えている人々の主張は要約すると、「当事者の中には生きる意味を見出せなく、死を希望している人もいる。その思いに応えられることも大事である。」というようなものです。

確かに、障がいや難病の当事者の中には、苦しんで生きるよりも死を選びたいという方もいらっしゃるのでしょう。

しかし、それを制度化させるというのは、「あなたは死んでもいいですよ。」と言っているのと同じです。

それを正当化させているのが「生産性」を人の価値基準にする発想です。

これは、僕自身の問題でもあります。

植松氏を非難しながらも、「寝たきりになって周りに迷惑をかけるくらいなら死んだほうがマシだ」という思いをどこかに持って生きています。

他人の荷物になることが恐いのです。

しかし、これを裏返してみるとどうでしょうか。

自分自身も生産性の基準で測っている姿が見えてきて、僕はゾッとしました。

真宗の僧侶でありながら、自分の命の本当の重さを知らないという事実をこの問題を通して突きつけられました。

みなさんはどうでしょうか。

 

「いのち」の値打ち

このやまゆり園で犠牲となった19人のご遺族の言葉が 「19のいのち」というサイトで紹介されていますので、一度読んでいただけたらと思います。

裁判中の法廷での言葉、死刑判決を受けての言葉、今の気持ちなど、それぞれの局面で聞き取られた言葉です。

その中で、19歳で命を閉ざされた美帆さんという方のお母さんが、法廷で植松氏にかけた言葉をここで引用させていただきます。

他人が勝手に奪っていい命などひとつもないということを伝えます。あなたはそんなこともわからないで生きてきたのですか。

(中略)何て、かわいそうな人なんでしょう。何て、不幸な環境にいたのでしょう。本当にかわいそうな人。

私は娘がいて、とても幸せでした。決して不幸ではなかったです。「不幸を作る」とか勝手に言わないでほしいです。私の娘はたまたま障害を持って生まれてきただけです。何も悪くありません。

美帆さんの母、法廷にて(NHK『19のいのち』より)

全文は娘を奪われた母の深い悲しみと、植松氏に対する怒りと憎しみが滲む重たい文章でした。

その中でこの部分が僕には深く刺さりました。

何かいのちの呼びかけのようなものを感じました。

命の本当の重さを、価値を知らない「かわいそうな人」というのは植松氏だけでしょうか。

自分や他人の命を生産性で測り、そこからはみ出した者は自己責任でどうなろうが構わないと言わんようなこの社会そのものが、彼と同じ根っこを持っているのではないでしょうか。

そして、このお母さんはこうもおっしゃられています。

娘に障害のこと、自閉症のこと、てんかんのこと、いろいろ教えてもらいました。私の娘であり先生でもあります。優しい気持ちで人と接することが出来るようになりました。待つことの大切さや、人に対しての思いやりが持てるようになりました。人の良いところ、長所を見つけることが上手になりました。人を褒めることが上手になりました。
人懐っこくて言葉はありませんが、すーっと人の横、そばに来て挨拶をして、前からの知り合いのように接していました。笑顔がとても素敵で、まわりを癒やしてくれました。ひまわりのような笑顔でした。美帆は毎日を一生懸命生きていました。

美帆さんの母、法廷にて(NHK『19のいのち』より)

美帆さんには他の多くの人よりも、目に見える支えが必要だったでしょう。それによるお母さんやご家族のご苦労もあったことかと思います。

しかし同時に、お母さんは人として一番大切なことを美帆さんからいただいたのでしょう。

人の価値を単なる生産性などで決めたり、生きる意味を自分や他人が勝手に決めたりすることがどれほど身勝手で罪深いことなのか、このお母さんの言葉を聴いて改めて思い知らされました。

事件からまもなく5年が経ちます。

事件を振り返るとともに、改めて僕らの社会のあり方と、いのちの問題について考えていければと思います。

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