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浄土真宗の仏壇のお飾りのお話〜「方便」の大切さ〜

お荘厳はなぜ必要か

浄土真宗のお荘厳(お飾り)は、御本尊は「阿弥陀如来(立像)」を中心に、左右に九字(南無不可思議光如来)・十字(帰命尽十方無碍光如来)のお名号、もしくは宗祖親鸞聖人・蓮如上人の御影をお掛けします。

しかし、こういう信仰の対象を形にする事(偶像崇拝)は、イスラム教など宗教によっては禁じられていたりもします。

その考え方は私も共感できます。偶像崇拝には、私たちが信仰対象を自分の手の中に入れて握りしめていく(執着していく)という問題を常に孕んでいます。

真宗でも阿弥陀如来のはたらきは「光」であって、本来は形をもったものではないと言われています。

では何故、御本尊やお飾りが必要なのでしょうか。

本山で授与される御本尊の掛け軸には、必ず裏面に「方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)」と記されています。

お荘厳が必要な根拠にこの「方便」という言葉が大変重要な意味を持ちます。

 

方便をもって真実が私に伝わる

(この「真実」という言葉は「大切なこと」という風に捉えていただければと思います。)

この「方便」という言葉は「嘘も方便」という諺があるように、どちらかと言えば本質とは対極に位置付けられているようなイメージを抱く方も多くおられると思います。

しかし、方便がなく真実のみが存在していた場合、私たちは本当にその真実に出遇っていけるのでしょうか。

私には自信がありません。

我欲で生き、我欲に悩まされ、自分の本当の願いに出遇うことなく終わっていく、そういう虚しい人生を私は生きてきたんだと、そういうことにすら気づけず、悲しむことすら出来ずに生きていたんだろうと思います。(今は気付いているのか?と問われると苦しいですが。)

仏さまの前に身を置くことで、仏さまを通して我が身に遇っていくような、そういう在り方を方便によってさせていただいているようなイメージを私は持っています。

偶像そのものが尊いのではなく、偶像(方便)という形を取って一切衆生(私)を救わんとする、そういう阿弥陀如来のはたらきが荘厳であるということです。

真実が方便を取って現れる。逆に言えば方便なくしては真実が私に届くことはないということです。

 

決して豪華である必要はないと思う

真宗の信仰にはお荘厳が大切な意味を持つということはお話しましたが、その一方で、色々揃えた立派なものでないといけないのかと言えばそうではないと私個人としては考えております。

本山で授与されるお掛け軸も、截金・金欄・無金と使われる金の量によってその見栄えは大きく変わりますが、それはあくまでこちら側の気持ちの問題であって、信仰には関係ないことだと思います。

極論を言えば、御本尊かお名号(南無阿弥陀仏)だけでもいいと思っています。

ある僧侶の方から、みかん箱に御本尊を安置しているご門徒のお話を聞いた事があります。

その方は金銭的に余裕がなく、その中でやむなくみかん箱に御本尊を安置して拝まれていたそうです。

私はそのお話を聞かせていただいた時に、なんと言いますか、極めて純粋な信心を感じ、本当に頭の下がる気持ちになりました。

本山の阿弥陀堂のような立派なお荘厳であっても、みかん箱に御本尊を安置しただけのお荘厳であっても、仏さまの前に身を置き手を合わせる場所を持つということが最も大切なことなのだと思います。

 

人間関係も方便は大切

これまでお荘厳の話をして参りましたが、本質と方便の関係性は人間関係にも言えると思います。

「人は冗談で本当のことを言う」

という言葉を聞いたことがあります。

大事な事ほどすぐには言えなかったりするもので、それとなく言葉のジャブを打ってみたり、冗談めかして切れ端だけ投げてみたりします。

そしてまたはっきり本質を伝えようとすることで、逆に伝わらないということもあります。

そもそも言葉そのものが方便であるので、私たちにとって方便というものは非常に意味深く大切なものなのですね。

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