事実の前に思いは破られる – お守りについて考える –
本山の参拝接待所に勤めておりました頃、よくご参拝の方からよくこんな問い合わせを受けていました。
「お守りは売っていますか?」
浄土真宗はお守りは扱っていません。しかし、お寺や神社といえば「御朱印」や「お守り」のイメージを持つ方は多くいらっしゃることかと思います。
交通安全や家内安全、金運上昇に恋愛成就なんてものもあります。
特にコロナ禍では病気平癒や無病息災のお守りを求められる方が多くいらっしゃいました。
私自身は教義的な意味でもお守りは持たないのですが、お守りを求める人の気持ちは分かるというか、お寺に生まれていなければ自分も持っていたのではないかなぁと思っています。
思い通りを期待する心
願掛けや祈祷は古くから日本のみならずさまざまな国や地域で習慣としてあるものです。
恐らくですが、そういった習慣のない国というのは世界中探しても見当たらないのではないでしょうか。
私たちは常に自分の先行きがより良いものであってほしいと願っています。大切な人との間に子どもを授かれば「お願いだから無事に生まれてきてほしい」と願います。もしその未来に暗雲が立ち込もうものなら、神にでも仏にでも見境なく祈ることでしょう。
そこまで極端な例でなくとも、私たちはいつも自分の「思い」に生きています。その思いの中で願う気持ちを「期待」というのでしょう。
人には嫌われたくない、事故にも遭いたくない、お金も増えて欲しいですし、健康に長生きしたい。大切な人にはずっと側にいてほしいと期待しています。
その「思い」に苦しむ
しかし、何事も自分の思い通りにいって欲しいという気持ちの裏側には必ず「思い通りにいかない」ことへの不安があります。
受験生の多くは、入試の前に合格祈願のお守りを買いますが、それは不合格という受け入れ難い未来への不安からの解放を求める気持ちでしょう。実際に効果があるかどうかは別としても、不安を和らげたり気持ちを前向きにするきっかけにはなるかも知れません。
仮に気休めであったとしても、一時的であれ救われたように思えたことも私の実感としてあります。
しかし、それではどこまでいっても人生の問題の根本的な解決にならないばかりか、その先には思い通りにいかない現実を受け止められない苦しみがあります。
むしろ一時の安心に浸ることで現実と向き合っていこうとする眼すら奪っていくものでもあるのではないでしょうか。
「現実」の前に「思い」は破られる
お守りを持とうが持たないが、私たちは「思い」の中で生きています。
その「思い」というのはどこまでも自分に立った思いです。現実に足がついていない、自分の執着に立った思いです。
しかし現実は私の思いを破って現れます。
私がどれほど願おうが祈ろうが、心を引き裂くような受け入れ難い現実と、生きていれば必ず出遇います。
生きたい、生きたいといくら願っても死は必ず訪れます。
それが私たちが受けたこの身の事実です。
私たちが本当に問題にすべきなのは、未来がどうなるかということではなく、どうなるか分からない現実をもって、現在をどのように生きていくのかということではないでしょうか。
それでも「思い」に生きていく
つらつらと僭越なことを書いて参りましたが、やはり私自身いつも自分の思いに立って生きています。
頭では分かっていても、事実に真向きになるということはとても怖いことですし、自分でも知らぬ間に思いの殻に閉じこもってしまうこともあります。
それに気づかせてくださるのが教えです。
自分の思いに固執して迷っておる私の姿に「本当にそれでいいの?」と問うてくださるのが仏さまの言葉です。
現実と向き合う眼が教えを通して開かれていくのが念仏者の歩みではないかと思います。