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失くして初めて出会える世界

健康の有り難みは失くして気づく

人は生きていく中で色々な人や物事と出会い、得たり失ったりしますね。

そしてそれに喜んだり嘆いたりします。

「大学受験に合格した」「就職が決まった」や「恋人ができた」なんかの時には有頂天になるほど歓喜するものですが、逆に受験に失敗したり、大事な人との別れは落ち込み嘆くものですね。

それに比べて、得ている時は特に嬉しくもなく、失った時は一際嘆かわしく思うのは健康ですね。

先日、急に霧がかかったように視界が霞みまして、それが目薬をさしても治らず、眼科に行こうにも夜遅くのことでしたからすぐにはかかれず、大変不安な夜を過ごしたことがありました。

白内障、緑内障、糖尿病・・・ネットで調べるとこういう最悪のケースばかり想像してしまうのでイヤですね。

しかし翌日には何もなかったように視界の霧は消えていました。念の為に病院に行くと、重度のドライアイと診断され、目薬を処方されるくらいで済みました。

ついさっきまでは何の問題もなく働いていた目が急に駄目になるというのは恐ろしいものです。

しかし生きている限り絶対に何らかの病気にもなりますし、事故などで急に健康が損なわれることも十分にあり得ます。

今当たり前に出来ていることもやがては出来なくなっていくのだと改めて実感した出来事でした。

断たれることで気付かされること

ここで、『真宗大谷派名古屋教区第19組仏教青年会発行 蓮如上人に学ぶ-末代無智の御文について- 宮城顗 講述』にありましたこんなエピソードを紹介させていただこうと思います。

曽我量深という、もう亡くなりましたがとても有名な大谷派のお坊さんが、後輩のお坊さんに年齢を聞いたところ、その方は「私もとうとう70歳になりました。」と答えました。

それに対して曽我氏は「はぁ、前途洋々ですね。」と返されたそうです。

これはどういう意味でしょうか。

僕を含め、多くの人にとって「老いる」というのは健康を損なうことであり、失うものはあれど得るものなどないように思えます。

しかし曽我氏は「とうとう70歳(にまで)なった」という事実に対して、「前途洋々」人生が開け、希望に満ち溢れている状態を指す言葉をかけたと言います。

これについて、この本の講述の宮城氏は「70歳を過ぎたからこそ開けていく世界がある」という意味だと解釈されています。

当たり前に出来ていたことが、出来なくなっていく、断念せざるを得なくなっていく。

逆に言えば、「出来なくなった自分」と出会うことで初めて「当たり前」ということに気付かされます。

自分の力で生きていると思っていたものが実はそうではなかった、気付かないところで自分の命を支えて下さっていた世界と出会わせていただくということです。

人の本来の姿

そう思ってみますと、僕は健康である状態を本来の姿として、それを損なうと本来でなくなってしまったと思ってしまうのですが、その発想自体が自分の世界を小さくしているのかもしれません。

やがて老いていき、出来ることが減って、やがて動けなくなって死んでいく、そこからの逆算でみる人生観というのは、ただ徐々に失っていくだけの人生のようで、どこか虚しく思えます。

僕が日頃思っている「本来の姿」というのは単に自分の思い、自我に立ったものでしかなく、むしろ時と共に衰えていくのが人間の命の事実であり、その事実を引き受けて生きていくというのが人間の本来の姿というものです。

その中で色々なことに気づき、それを楽しんで生きる。

そういう姿を「今を生きる」というのかもしれませんね。

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