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仏事は不要不急なのか -『白骨の御文』が問いかけること-

今年も内勤めとなった永代経法要

先日5月1日、円龍寺では永代経法要をお勤めいたしました。

2年続けての内勤め(参拝のご案内は行わず、僧侶だけでお勤めすること)です。

年に一度の大切な法要ですので、本来はやはりご門徒の方々とご一緒にお勤めするのが善いですし、ギリギリまでそうしようと粘ったのですが、やはり緊急事態宣言の発令を鑑みてこのような形とさせていただきました。

ご門徒がおられないお堂はやはり寂しいものですね。

本来は法要後にご法話がありまして、テーマを持って講師の先生をお呼びしておったのですが、それも叶いませんでしたので、法要が終わってすぐに後片付けをしていたのですが、その最中ふとコロナ禍で繰り返し叫ばれる「不要不急」という言葉について考えました。

「不要不急」を字で見ると「要(かなめ)で無く」「急ぎでない」となりますね。

要で急なことというと、なければ生きていけないものということになります。代表的なものとして衣食住に関わるものが挙げられますね。

この場合の「生きていけない」というのは、生命活動の維持の問題を指すのだと思います。

その意味でいえば、確かに芸術鑑賞や人に会いに行ったりということがなくても栄養失調や脱水は起こしません。

そしてお寺に集まって念仏や聞法することも「要でなく、急ぎでない」ことになります。

しかし、私たちにとって「生きる」ということは、本当に生命活動の維持だけの問題なのでしょうか。

 

浮生なる相

ここで、浄土真宗の歴史の中で最も有名なお坊さんであります蓮如上人が、ご門徒へのお手紙として著された『御文』の中から『白骨の御文』をご紹介させていただきます。

それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきことは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。

されば、いまだ万歳の人身を受けたりということを聞かず。一生過ぎやすし。今に至りて、誰か百年の形体をたもつべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫、末の露よりもしげしと言えり。

されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬる時は、六親眷属集まりて、嘆き悲しめどもさらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。

蓮如上人『御文』五帖目第十六通「白骨」より引用

現代語訳はこちらの寺坊様のご住職が分かりやすく記されておりますので、よろしければご覧ください。→明順寺HP

この「白骨の御文」は最も有名な御文の一つで、浄土真宗の葬儀などで主に読まれているものです。

その冒頭に「人間の浮生なる相」という言葉があります。

浮生というのは、根無し草のようなフワフワとした状態です。

日々、あぁなりたいこうなりたい、あれが足りないと、自分の想いを満たすことを願ってばかりで、「必ず死んでいく」という自分自身の命の現実に足がついていない、そういう私たちの生き様が「人間の浮生なる相」です。

コロナ禍で私がよく友人にかけるようになった言葉があります。

「コロナが落ち着いたら会おう。」

今、このような状況下ではやめとこう、という風には考えが及ぶのですが、「今度」があるかどうか分からない、いつ私が、彼が命を終えていくかは分からない、という現実は考えないわけです。

大切なことを先へ先へとしていく。この身の現実ではなく、世情やその時々の自分の想いに固執し、それにぼんやりと悩まされておる私たちのあり様を、蓮如上人は「人間の浮生なる相」と厳しく指摘されています。

 

後生の一大事

この『白骨の御文』の最後には「後生の一大事」という言葉があります。

「後生」というのは、文字通り訳しますと「生きた後」、つまり「死後」のお話のように受け取られますが、宮城顗という先生の講義の中で後生の一大事の問題について、以下のような受け止め方がされています。

「あなたはいつ死ぬかも知れないよ、今のままで死ねますか」

引用元:真宗大谷派名古屋教区第19組仏教青年会 発行『蓮如上人に学ぶ  -白骨の御文について- 宮城顗 講述』

つまり、後生の一大事は死後の問題ではなくて、今の私の問題であるということです。

さらに「過去と未来を切り離した今ということではもちろんない・・・(中略)・・・私の全生涯が今問われている(引用元の著書より抜粋)」と加えられています。

ここで、コロナ禍における「不要不急」という言葉に戻りますが、私たちは今この時を「不要不急」なものとしていないでしょうか。

いつ終わりを迎えるか分からない命を生きながら、コロナを理由に今の問題を後回しにしていないでしょうか。

仏事というのは単に仏像を拝むということではなく、教えと出遇うということです。私が本当に問題にしておったことが照らされていくということです。

決して、コロナ禍でも葬儀や法事をすべきだと主張しているわけではありませんが、「不要不急」という言葉を通して、「私にとって本当の意味で “要” で “急” なものとは何だったのか?」ということについて一緒に考えていければと思い書かせていただきました。

このようなことを申しておりながら、私自身、大事なことほど後回しにして生きてきたなぁと最近つくづく感じております。

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