お盆参りを終えて
円龍寺では8月の12日から15日までの4日間、お盆のお参りをいたしました。
平素のお参りと同じく、ご門徒の方々のご自宅に伺ってお仏壇の前でお勤めをするのですが、日頃お参りをする機会の少ない僕にとってはご門徒と直接関わる貴重な期間で、ほとんどが1年以上ぶりにお会いする方になります。
高齢の方が多いのですが、ほとんど変わらずお元気な方や、少しお身体を悪くされた方など変わり具合は様々ですが、やはり時の流れを感じます。
初めてお盆参りをさせていただいたのはおそらく中学生の時だったと思いますが、その時に迎えてくださった方はもう遺影になられていたりということもあります。
時の流れを感じる時、少しばかり寂しさが芽生えるようになったのはいつくらいからでしょうか。
浄土真宗のお盆
さて、お盆と言いますと一般的には「亡き人の霊魂が現世に戻って来られるのでお迎えをし、またお見送りをしてご冥福を祈る」というような風習と言われていますが、真宗の場合は少し違った意味合いを持ちます。
家族・親戚が集って仏さんの前に身を置き手を合わすということ自体は同じなのですが、そこではすでに迷いから離れて仏になられた存在である亡き人の冥福は問題になりません。
これは葬儀やご法事にも言えることですが、亡き大切な方の存在を縁として、私自身が仏さんの教えと出遇わせていただくのですね。
僕らは自分の人生を生きていますが、自分をその場所に立たせているものは案外自分の思いの外の存在であったりします。
僕が僧侶として今こうして教えを聞いたり、お参りをしたりしているのはきっと真宗のお寺に生を受けたというところが非常に大きいと思いますし、今この場所に僕がいるというのは、先ほど述べた遺影になられたご門徒のように私の出遇い、そして先立っていかれた方々や、もっと遡って出会ったことのないご先祖や、そういう歴史の上にあります。
日頃「俺が私が」と言って生きていながら、思いの外にあり私を生かしている存在が見えなくなると結局は自分が暗くなるんですね。
亡き方を偲ぶということはどこまでも、亡き方の人生を今生きておる私たちがどのように受け止めて生きていくのかということが問題になってくるのではないかなと思います。
亡き方を縁として、仏さんの前に集って教えを聞き、そこで自分自身が開かれていくような、そういう亡き人との関わり方が真宗のお盆というか供養であり、亡き人を仏さんとしていただくということなのではないかなと僕は思っています。
ちなみに盆の期間中に僕が毎日開いていた本は仏教書よりも英単語帳でした。精進します。
そしてお盆期間中の豪雨、一部の地域では大変な被害があったと聞きます。被害に遭われて亡くなられた方や怪我をされた方、そして大変不安な状況の中におられる全ての方に謹んでお見舞い申し上げます。